いじめられる側に原因があるか聞かれたら完璧な人間はいないのである、と答えざるをえません

けれどそれは、いじめる側が原因を相手の中に「見つけた」だけのことだと思います。まずいじめる側に、誰かをいじめたいという目的(結果)があって、その目的に向かって、原因を探し出されたのです

①少し自分語りをします
ぼくが小学校のときに声優を目指していると言ったら
ある人が「テレビのバラエティにしか出ていないくせに」「声優学校にも行っていないくせに」と言って、ぼくのことを笑いました

②そのあと、ぼくは声優学校に通える年齢になったので声優のレッスンに通いはじめました
するとその人は「いくら声優のレッスンだけ受けても、テレビに出ているやつなんかダメだ。本気で声優になりたい人は真剣に舞台で芝居をやっているんだ」と言って、ぼくのことを笑いました

③そのあと、ぼくは偶然にも舞台と出会い、すっかり舞台の面白さにハマり、いま舞台のお仕事をしているのですが、
その人は「あいつは落ちぶれてテレビにも出してもらえなくなって、小劇場にしか出られなくなったから、声優になんかなれない。」と言って、やっぱりぼくのことを笑っています(笑)

④何が言いたいかというと、いじめられる側からいくら「いじめる人に言われる原因」を取り去ったとしても
その人の中にある、他人をいじめたいという「結果」が変わらない限り
人は、永遠にいじめられ続けるのです


いま、誰かにいじめられていて「自分にも原因があるから仕方ない」とか、「悪いところをなおせばいじめられなくなるかも知れない」とか考えて苦しんでいる人がいたら
ぼくの①から④までの話を何度か繰り返し読んで、③のところで思い切り吹き出してみてください。

これを読めば、変わる必要があるのはいじめられる側ではなく、いじめる側であるということ。
そして、いちいち人の意見に振り回され、他人の望む自分になることのバカバカしさが分かるでしょう。

今の自分を変えたいと思う、それはとても素敵なことだよ
誰だって今日より明日の自分がかっこよくなった方が嬉しい…
でもそれは自分自身のためにやってください!
「いじめられない自分」ではなく、「自分がなりたい自分」を目指して
その姿に少しでも近づけるよう、頑張ろうね(*´ω`*)

いじめられる側に原因があるのは
いじめる側に「いじめをしたい」という結果があるからです。
原因があって結果があるのではなく
結果があって原因がある。
いじめる人が変わらなければ、
いじめられる人がいくら努力しても
いじめが無くなることはありません。
自分の人生を生きてください。





この記事への反応


はるかぜちゃんに対してでは無く、提示してくれた問いに対して思うところがあります。たとえいじめられる側に「原因(素養?相違点?特徴?)」があってたとしても、それでいじめることは正当化されないし、いじめた側を許す理由にはならないですよね!※当然ですが

何にせよ、気が合わない人間同士が無理に一緒にいる理由はない。
サッサと離れれば良いだけの話。
その両者が離れる自由を妨害し、同じ場所に閉じ込めようとしている存在があるならば、それこそが本当の悪。


原因・要因があることと、だからそうなって当然とはかなり大きい開きがあるんですよね。原因や要因について言えば無数にあり得る。例えばいじめなら同じ原因があっても起こる時と起こらない時がある。じゃあ起こしてるのは誰の何か、という事になりますね。

いじめられる側に原因があると言う大人は
いじめを正当化するだけの相応の理由がある事を保証し、説明する義務がある|・ω・)












正論すぎる







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