マジカヨ・・・








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宝暦10年9月23日?(1760年10月31日?) 武蔵国葛飾郡本所割下水([3]江戸・本所割下水。現・東京都墨田区の一角。「#北斎通り」も参照)にて、 貧しい百姓の子[要出典]として生を受ける。姓は川村氏、幼名は時太郎(ときたろう)。のち、鉄蔵(てつぞう)と称す。通称は中島八右衛門。

明和元年(1764年) 幕府御用達鏡磨師であった中島伊勢の養子となったが、のち、実子に家督を譲り、家を出る。その後、貸本屋の丁稚、木版彫刻師の従弟(とてい)となって労苦を重ね、実家へ戻る。この時、貸本の絵に関心を持ち、画道を志す。

安永7年(1778年) 浮世絵師・勝川春章の門下となる。狩野派や唐絵、西洋画などあらゆる画法を学び、名所絵(浮世絵風景画)、役者絵を多く手がけた。また黄表紙の挿絵なども描いた。この頃用いていた号は「春朗(しゅんろう)」であるが、これは師・春章とその別号である旭朗井(きょくろうせい)から1字ずつもらい受けたものである。

写真提供 Teioコレクション 安永8年(1779年)の北斎デビュー作とされる。 瀬川菊之丞の図 初め勝川春章の門入で春朗と号した。

安永8年(1779年) 役者絵「瀬川菊之丞 正宗娘おれん」でデビュー。

寛政6年(1794年) 勝川派を破門される。理由は、最古参の兄弟子である勝川春好との不仲とも、春章に隠れて狩野融川[4]に出入りし、狩野派の画法を学んだからともいわれるが、真相は不明である。ただ融川以外にも、堤等琳についたり、『芥子園画伝』などから中国絵画をも習得していたようである。

寛政7年(1795年) 「北斎宗理」の号を用いる。

寛政10年(1798年) 「宗理(そうり)」の号を門人琳斎宗二に譲り、自らは「北斎」「可侯(かこう)」「辰政(ときまさ)」を用いる。

享和2年(1802年) 狂歌絵本『画本東都遊』刊行開始。

文化2年(1805年) 「葛飾北斎」の号を用いる(正字については導入部を参照)。

文化7年(1810年) 「戴斗(たいと)」の号を用いる。

文化9年(1812年) 秋頃、名古屋の牧墨僊邸に逗留、その後、関西(大坂、和州吉野、紀州、伊勢など)方面へ旅行する。

文化11年(1814年) 『北斎漫画』(#)の初編を発刊。

文化14年(1817年) 春頃、名古屋に滞在。10月5日、名古屋西掛所(西本願寺別院)境内にて120畳大の達磨半身像を描く。年末頃、大坂、伊勢、紀州、吉野などへ旅行する。この時、春好斎北洲が大坂にて門人になったとされる。

文政3年(1820年) 「為一(いいつ)」の号を用いる。『富嶽三十六景』(#)の初版は文政6年(1823年)に制作が始まり、天保2年(1831年)に開版、同4年(1833年)に完結する。

天保5年(1834年) 「画狂老人(がきょうろうじん)」「卍(まんじ)」の号を用いる。『富嶽百景』(#)を手がける。


天保13年(1842年) 秋、初めて、信濃国高井郡小布施の高井鴻山邸を訪ねた。この時、鴻山は、自宅に碧漪軒(へきいけん)を建てて、北斎を厚遇した。

天保15年(1844年) 信濃国は高井郡小布施に旅し、嘉永元年(1848年)まで滞在。『怒涛図』(右の絵はその一部)などを描く(#)。

嘉永2年4月18日(1849年5月10日) 江戸・浅草聖天町にある遍照院(浅草寺の子院)境内の仮宅で没する。享年90。辞世の句は「人魂で 行く気散じや 夏野原」であった(#)。墓所は台東区元浅草の誓教寺。法名は南牕院奇誉北斎居士。生誕二百年記念碑がある。

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変わったおっさんだったんやろなぁ・・・w