映画「ターミナル」のモデルとなったイラン出身男性 パリの空港で死去
記事によると
・フランスの首都・パリのド・ゴール空港で18年生活し続け、トム・ハンクス主演の映画「ターミナル」のモデルとなったイラン出身の男性が12日に死去したと報じられた。
・パリ空港当局の関係者によると、亡くなったのはメヘラン・カリミ・ナセリさんで、同日正午頃に同空港第2ターミナルで心臓発作を起こし、警察と医療チームがナセリさんを救おうとしたが、助けることができなかったという。ナセリさんの出生は不明だが、1942年生まれといわれており80歳だったとみられる。
・2006年まで18年間空港で暮らしたのち、体調を崩してパリ市内の施設に入所していたが、死亡する数週間前から再び空港で暮らしていたという。
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メフラーン・キャリーミー・ナーセリー (ペルシア語: مهران کریمی ناصری ; Mehrān Karīmī Nāṣerī 1942年 - 2022年11月12日)は、イラン国籍の難民。1988年8月8日以来フランスのシャルル・ド・ゴール空港の出発ロビーで生活をしていたことで知られる。
サー・アルフレッド・マーハン ( Sir Alfred Merhan )とも称される。マーハン・カリミ・ナセリ ( Merhan Karimi Nasseri ) 、マーハン・カリミ・ナゼリ、アルフレッド・マーハン、アルフレッド・メーラン ( Alfred Mehran ) 、アルフレッド・メヘラン、などとも表記される。
半生
メフラーン・ナーセリーは1942年、イランの南西フーゼスターン州のマスジェデ・ソレイマーンで、アングロ・イラニアン石油会社(英語版)(AIOC)に勤めるイラン人の医師の子として誕生した。ナーセリーによると自身の母はイングランド出身の看護婦であったと述べているが、家族はこれに異議を唱えている。1973年9月にイギリスへと留学しその後3年間ブラッドフォード大学でユーゴスラビアに関する勉学を修めた。
1974年3月にナーセリーは、イラン・パフラヴィー朝のシャー・モハンマド・レザー・パフラヴィーの統治に対する反対運動に参加した。1975年8月7日にイランに帰国した彼は、メヘラーバード国際空港でイランの秘密警察サバク(SAVAK)に拘束され、エヴィーン刑務所に収容された。国外追放に処せられるまでの4か月間に彼は拷問を受けたとされる。
ヨーロッパへと戻った彼はベルギー・西ドイツの各政府に対し政治亡命の申請を行なったが、いずれも却下された。1978年にはフランスにおいて同様の申請が却下され、抗告も受け付けられなかった。イギリスへ向かおうとしたナーセリーはヒースロー空港で入国を拒否された。西ドイツにも入国できなくなった彼はベルギーへと向かった。
1980年10月7日にナーセリーは、在ベルギー国連高等難民弁務官事務所により難民として認められた。ナーセリーはその後1986年までベルギーで生活したが、イギリスへの移住を決意してベルギーを離れた。旅の途中シャルル・ド・ゴール空港に向かうRERの駅で彼のショルダーバッグが盗難にあう。ヒースロー行きの航空機には乗ることができたものの、ヒースロー空港で自身の身分を証明する書類がなかったため、係員は入国を拒否しナセリはシャルル・ド・ゴール空港へと引き返した。フランスの役人に対しても難民としての身分証明を行うことができなくなった彼はシャルル・ド・ゴール空港の待合ゾーン (Zone d'attente) へと移動した。ただし、自伝『ターミナルマン』では、難民認定書は盗まれてしまったと取材などで答えていたが、実際は1986年、ベルギーからイギリスへ向かうフェリーのなかでもうベルギーは出国したので難民認定書とイギリス領事館が発行した入国許可証は不要と考えて、フェリーのポストに国連高等難民弁務官事務所宛に投函してしまったと語る。その後、イギリスの入国審査で入国拒否され、ベルギーに送還されるが、そこでも身分証明書などがないため入国拒否され再びイギリスへ送還、それを何度か繰り返しているうちに、イギリスの係員がフランスなら入国できるかも、とフランス行きの旅客機に乗せ入国だけはできたのが空港生活のはじまりと説明している。
彼の困難な状況は弁護士クリスチャン・ブーゲの知るところとなった。訴えによって1992年にフランスの裁判所は、ナーセリーが合法に入国した以上フランス政府にはナーセリーを国外に追放することはできない、との決定を下した。しかしナーセリーには難民としての身分と通過ビザが与えられなかったため、彼自身は空港ターミナルビルの中で宙に浮いたままとなった。
ブーゲらはベルギー政府に対し、ナーセリーの難民としての身分証明書を再発行するよう求めるが、ベルギー政府の難民担当部署はこれを拒否し、ナーセリーが過去に身分証明書を発効された本人であると確認する為に、当人がベルギーの役所に出頭する必要がある、としている。ベルギーの法律によると、自発的にベルギーを離れた難民には再入国が許可されないとあり、ベルギー政府はナーセリーの入国を拒否していた。1995年にベルギーは態度を和らげ、ナーセリーがソーシャルワーカーの監視のもとベルギーで生活することに賛同するならば、身分証明の発行を認める、と伝えてきた。ナーセリーはベルギーで生活することを受け入れておらず、状況は変化していない。彼自身は、イギリスでの生活を望んでいる。
1999年にフランス政府はナーセリーに対し居住許可および難民用パスポートを交付し、フランスで生活することを認めた。しかしナーセリーは、文書において自身の個人情報が正確に記されていないことに憤慨し、サインを拒否した。この頃からナーセリーは、自身はイラン人ではない、ペルシア語も話せない、と述べるようになるなど精神的に問題を抱えるようになったと見られる。イギリスの役所からサー…(サーは一般的な敬称としても用いられる)で始まる書類を受け取っていた彼は自身の名をサー・アルフレッドと呼ぶようになった。
数年間が経つとナーセリーは空港での生活に順応するようになった。ナーセリーは毎朝5時(早朝便が到着する時刻)に空港のトイレで髪を洗い、身だしなみを整えている。空港の職員は時折彼の衣服の洗濯を行っており、ナーセリーのためにソファーも用意された。ナーセリーの日中はラジオを聴くこと、読書、日記を書くことに費やされる。日記は後にアンドリュー・ドンキンにより編集され自伝として出版された。この自伝はイギリス、ドイツ、ポーランド、日本などで出版されている。
よく「15年以上ずっと空港に滞在しつづけた」と語られるが、彼が空港にやってきてから15年余りの間に、空港内でのアルバイトで貯めた資金でチケットを買い、ロンドンまで飛行機で赴いた事や(ただし、ビザがないためイギリス当局に入国を拒否されシャルル・ド・ゴール空港へ強制送還された)空港の制限区域内から無断で出たためにフランス当局に拘束され刑務所に一時収監されたりと、空港の敷地外に出たことも何度かある。
2022年11月12日、シャルル・ド・ゴール空港の第2ターミナルで心臓発作により死去[1][2]。数週間前にシャルル・ド・ゴール空港に戻ってきたばかりであった。
この記事への反応
・モデルになった人がいたんだ。知らなかった。
・数奇な人生というべきかなんというべきか。 映画はとても感動したからよく覚えている
・せつない最後だな
・結局、最後は空港内で亡くなるなんて…
・映画はコメディ風であったが…🙏
・亡くなったのかー。空港に戻ったのは、施設が過ごしにくかったからなのか、それとも空港が好きになったからなのか。
・もうそこで生きていくことしか出来なかったんやな。
・最近読んだ記事では行方不明とあったけど最後はターミナルだったのね…
最後は空港で死にたかったんだろうか・・・
ご冥福をお祈りします
ご冥福をお祈りします


事実は小説よりも・・・・
「紙切れないからお前4ぬまで空港暮らしな」
被害者なんだよなぁ
そりゃ普通だったらパスポート失くしても発行してもらえるもんな
迷惑な野郎だ
思想の排除とされかねんし
内容もしらない情弱がいちいち改行してコメントしてやがる笑
続編のネタ作るために身体張ったんやろ
バカだけど、人間って追いつめられると結構バカな行動するもんだよ。
この人はなかなか無いドラマティックな人生だね
裕福な暮らしをしていたんだろうな
せめて死後は安らかでありますように
当時の宣伝文句だったよ
ただの迷惑ジジィやん
独身の孤独死回避法じゃないかコレ
それはお前、99年に空港から出てフランスで暮らせるチャンスがあったのに、情報が違うって理由で本人が拒否してる
映画だけ見て内容知ったような情弱はお前(笑)
キャサリンゼタジョーンズが美人で素晴らしかった
へぇ~
刑務所に戻ろうとする人がいるらしいけど
それと同じ感じだったんかな
更に無駄に頑なだし、どーしようもねーなって感じよなぁ
精神不安定な奴が迷惑なわけないやん
政府認定ホームレスで生活保護費もらってたのかな?
なんでそんなにイギリスに行きたかったんだろう
在庫みたいwww
そりゃ日本でいう処の パ ヨ ク って奴等やで
ただ日本と違うのはあっちのパヨクは一応「自分達で当面の金銭的支援はしてる」って部分や
日本だと「ゴネるだけで金は出さん、けど実績出せたら手柄は俺のモノ」ってスタンスは逆にハブられるだけや
独身だろうとなかろうと死ぬ時は一人だぞ?家族に看取られて死にたい?お前だけが死んで行く所を家族が観察してるだけだぜ?
できなかったんだよなあ
モデルとなった人は空港で生涯を終えるとか、事実は小説より奇なり